気づいたら、自分のことはいつも後回しでした。
「今日の晩ごはんは何がいい?」
そうやって家族に聞くことが、いつの間にか当たり前になっていました。
自分が何を食べたいのかは、あまり考えていなかった気がします。
外食のときも、子どもや夫が食べたいモノを優先して、私はそれに合わせて選ぶ。
「今日は、お母さんが好きなものにしていいよ」と言われても、どこか迷ってしまって、結局みんなが喜びそうなものを選んでいました。
洋服もそう。
本当はこっちがいいなと思っても、「今はお金がかかる時期だから」と妥協して安いモノを買ったり、セール品で済ませたり。
選んでいるようで、選んでいないなかったのかもしれません。
息子に食物アレルギーがあったころは、食べるものにもせいげんがありました。
外食では、息子とシェアできるものを選ぶことが前提で、自分が食べたいものは、自然と選ばなくなっていきました。
「私はしばらくの間、好きなものは食べられないんだな」
お母さんなんだから当然。そんなふうに思っていた時期もあります。
そうやって過ごす時間が長くなるにつれて、「自分は後でいい」が当たり前になっていきました。
今振り返ると、それはただ忙しかっただけではなかった気がします。
自分で選ばない方が、楽だったのかもしれません。
何を食べるか。
何を着るか。
誰かに合わせていれば、考えなくてもいい。
間違えることもないし、迷うこともない。言い訳もできる。
そうやって過ごしているうちに、少しづつ自分で選ぶことから離れていったのだと思います。
だからこそ、こんまり流の片づけをはじめて、「ときめくモノを選ぶ」となったとき、あまりピンとっこなかったし、自分で選んで決断することが、少し怖かったのかもしれません。
どれもそんなに悪くはないし、そもそも自分の感覚に自信が持てませんでした。
今思うとそれは、ときめのき感覚がないからではありません。
ただ単に、選ばないことに慣れ過ぎていたからだと思います。
片づけは、ただ単にモノを減らしてスッキリした空間を目指していくことだけではなく、モノを通して自分に問いかける時間でもあります。
どっちが好きかな。
どっちがしっくりくるかな。
そんな小さな問いを、自分に向けていく時間。
最初はうまく選べなくても、少しずつ自分の感覚は戻ってくるのだと思います。
急に変えようとしなくても大丈夫。
片づけていく中で、一つひとつ「どっちがときめくかな」と立ち止まってみる。
その小さな選択を積み重ねていくうちに、選べるようになっていくのです。
そして気づいたら、自分のことを大事にできるようになっているのかもしれません。
どんな小さなことでも、「自分で選んでいる」という感覚は、日々の満足度を静かに上げてくれているのだとも思います。
もしよかった、今日の晩ごはん、「何が食べたい?」と誰かに聞く前に、一度自分に聞いてみませんか。
「今日わたし、何が食べたい?」
